昭和50年06月18日 月次祭
今日は前講を末永先生が承っておりました。そのお話の中にお夢を頂いた。そのお夢の中に親先生と愛子先生と、上野愛子先生と差し向かえで、上野先生がそれこそ涙を流さんばかりに感激しながらお礼を言うておられる。それをまた親先生が感激一杯でお礼を言うておる。お礼の言い合いをしておる所を頂いた。上野先生の信心。親先生の信心を去る事ながら、是は何時も親先生が言われる様に。
上野愛子先生と云う事はあの、最高の愛と書いてある。ですから最高の愛と云う事は天地金乃神様を表現して下さる時に上野愛子先生を頂くから、上野愛子先生と云う事は天地金乃神様の事だろうというお話をいたしております。天地金乃神様が親先生にお礼を言うておられる。親先生も又上野先生にお礼を言うておられる。教祖生神金光大神様あって神が世に出たと天地金乃神様は仰られる。此の方金光大神あって神が世に出たとも仰っておられる。此の方は神からも氏子からも双方からも恩人とも言うておられる。
神が一礼申すとも言うておられる。私はお道の信心のぎりぎりの焦点はここへ置くんだと思うです。神様が喜んで下さると云う事は、神様がお礼を言うて下さると云う程しの時に最高潮だと思うんです。唯私共が病気が治りました。商売が繁盛いたしておりますというおかげも去る事ながら、私共の心が愈々神様へ向かうて進んで行く時に、私共の心の中にどこから湧いて来るか解らぬ喜び。信心の所謂妙境とでも申しましょうか。そういう心が段々育って来る。
それを愈々育てて行くと言うのがお道の信心なのであります。私くしが天地の親神様から礼を言われる程しの信心が出来ておられるとは思われませんけれども、そういう信心の理想と云う物を、まあ末永先生を通して教えて下さったんだと思うのです。今日午後の奉仕の時に、日田の綾部さん達一家がお参りになった中に、最近ちょっと御無礼しておられた方が一緒に参って三重た、先日からある難儀な、まぁ本人にとっては大変難儀な問題なんです。その方は連れ子して、後妻に見えておられます。
もう自分の子供も大きい。前の奥様にも矢張り子供さんがあって、それはある事情があって別れておられる。その子供さんももう矢張り、中学高校かで御座いましょう。単車を乗り回す程しですから。でこの頃からお父さんに向けて、単車を買ってくれと言うておられたから、小型の単車を買うてやっておられた。その時まではそう何でもなかった。所が又、そのついこの頃じゃったのに、あれはこまいから大きい単車と買い換えてくれと言うて見えた。そこにお婆ちゃんがある。
お婆ちゃんに取っては矢張り、別れてはおるけれども可愛い孫ですし、どうかしてやりとうして堪らない。お父さんもまたあれが言う事だからというので、聞いてやろうと云う様な姿勢を示す。そこで穏やかでないのがその奥さんなんです。自分の子供には始末倹約をさせておる。そりゃ自分がさせておる。買いたいと言うけれども、自転車でも中古の自転車に乗せて、もう、買うてやらにゃいかんと思うけれども、辛抱しておるのに。前の先妻の子供にはついこの頃買うてやったばっかりのに。
こまいというて大きいのばといや買うてやろうとする、そういう風が見える。お婆ちゃんはもう、可愛いうて答えん。ほんにあれが言うなら買うてやろうというごたる風に言われる。そこに義理の中と云うのがあるわけです。是は誰しもがそんな感じがすると思うのです。妙なもんです。自分には解らない悩みなんです。とうとう耐え切れずに綾部さん所に見えられた。実は綾部さんここうですがと。
綾部さん聞いておられて、それはもう大体はね、あなたが大きくなんなさる他にないけれども、信心させて頂きゃそう言う事が問題、普通なら絶対問題になる事なんだけれども、信心させて頂くものは、その問題が問題になったのでは信心にならんと仰せられるから、兎に角親先生に一遍電話を掛けて見なさいと。
それで綾部さんあなたが掛けてくれと云う事である。やっぱり綾部さんが懇懇として言うて聞かせられた様に、お電話でも私がやっぱり私も実はそう云う風に申しました。で、親先生からも電話がかくかくだったと伝えられた。前からお参りもなさっておられたし、私の話もずっと聞いておられましたから、ね。本当に矢張り叔父、お婆ちゃんの気持ちになったらそうでもあろう。また自分の主人の気持ちになったらそうでもあろうとこう解って来た。昨日からそのそれに、自分がサインをまあ賛成されたわけです。
それでまあ品物も来たから向こうの子供さんがそれに取りに見えた時にです、それを送ってやられる時にです、なしか知らんけれども涙が流れてしょうがなかった。有難うして。何かその自分の義理の言うならば、もう別れておられるその子供さんの上の事をです、それこそ言葉ではそうは言われませんけれども、どうぞああいう大きな単車を買うて与えましたが、本人も喜んで帰っておりますから。
どうぞあれに乗って怪我過ちどん在りません様にと云う様な思いも、こもごもに思い祈られた事だろうと思うのです。もう先生この喜びをどこから湧いてくるか解りませんち。ご信心の徳ですよね。今日はわざわざその事の為に、今日は綾部さんも同道でお礼に見えました。私はその方に申しました。有り難いねもう金光様のご信心のおかげちゃ是ばいち。しかも是を愈々育てて行く事に精進する事がお道の信心だとまあ聞いて頂きました。皆さんも折りに触れてどうにも出来ない。
言わば難儀な問題を問題として感じる時がある。苦しみを苦しみとして感じる時がある。けれども一度お広前にお引き寄せを頂くともう此処へ着いた途端に、もう何んにも云う事は無くなったと云う様に、例えばこのお広前にはそう云う様な何か働きがある。実は親先生今日はあれ是と思うて来ましたけれども、何も心にしこりが無くなってしもうた。願いをする事すらも無くなっていた。ね。そして改めて新たな御教えを頂いて有り難いで帰られる、お取次ぎを願われるご理解を頂く。
はあそうだったと気が付かせて頂く所から、どこから湧いて来るか解らんその喜びがある。その喜びと云う物は誰の心の中にもあるのだ。その喜びが矢張り私共は生神様になれれる内容を持っておると云う事はそう云う様な事では無かろうか。どっからか持って来るというのじゃない。自分の心の中にそういう喜びの心と云う物があるのだけれども、それが何の為に出て来ないのか。
我情であり我欲である。自分があぁ有りたいこうしたいこう思うというその思いがね、そのお互いに持っておるその喜びを隠してしまう。抑えてしまうね。そこで我情が取れた時に我欲が取れた時にそれこそ、心の中から翻然として有り難い物が湧いて来る。その有り難い物を愈々育てて行く、と言う所にお道の信心があると思うのです。今朝から朝のご理解の中に例えば人が、ね。泥棒だと言うて乞食だというても腹を立ててはならぬ。腹をたてな神がよく見ておる。
しっかり信心の帯をせよと。泥棒しておらなければ泥棒じゃない。乞食をしておりゃにゃ乞食ではないというお話で御座いました。そこでですどう云う様な言うならば目に余る事を見たり目に、それこそ心にもない自分の思うた事もない事をです、思うた様にした様に言われる様な場合ね、それこそ神様が見て御座るから、神様が聞いておって下さるのだから、信心とは神様が御覧になり、お聞き通しに聞いておって下さる、世界に生き抜く事だと頂いておるだと、自分自身が大きくなる事に勤めたらよろしい。
しっかり信心の帯をせよと言う事は、しっかり信心を締め上げるというのではなくて、この帯が自分のお腹が小さいから是が緩むのです。だから自分の中が大きくなる時に、例えば昔割木というのがあった。焚き物。結えてあるそれが何本か抜けておると中がゆらゆらです。抱えられたらバラバラでる。けれども中に五本抜けておるなら三本こうやって中にこう打ち込みますとそれがしっかり立って来るでしょう。信心の帯もそうなんです。自分の心が小さいから腹がたつのである。
自分の心が浅はかだから、それが堪えられんのである。ね。是を深う、所謂神様の思いを深う解らせて貰う時、自分の心が大きくなる時に、信心の帯がピッとこう締まる様な物だ。大きなおかげを頂きたいなら、ね、矢張りおかげの受け物も大きくしていかなければならない。して見ると大きなおかげを頂きたいと願うておるから大きなおかげの受け物を作らせて下さろうとする、神様の働きだと解ると、もうそこには唯、ね、それが平気であるというのではなくて、お礼を申し上げねば居られない事になって来る。
私は昨日初めて教祖様のそのこの、今の御教えがこう云うところから出たのであろうという、福田源三郎という大変御徳の高い先生がおられました。その方が亡くなられて何年祭かに今度御理解感話集というのが出来た。それをこの頃御本部で頂いて来ておる。それをたまたまそこのところを読ませて頂いとりましたら教祖様が、神様からいろいろとお伝え頂かれる様になる。それこそ裸足でこの山にね、さあ登れ下りれ、前の日に竹やぶを切れ、切らしておられる。
その山へ裸足で登れ、裸足で下りれと仰る様な事があった。それをもう一生懸命下りられる。駆け下りられる。また登られると云う事もあった。夜の夜中に矢張り神様のお伝えがあるとそれをそのままになさって、夜夜中歩き回られる様な事があるのを近所の者が、この頃文さん可笑しいぞと。それこそ泥棒でもしておらんばかりに、風評をした時代があったと言う事で御座います。ね。そう云う時にです、この御教えは出たのであろうと福田先生は言うておられます。ね。
例え人が泥棒だと言うても乞食だと言うても、泥棒をしなければ泥棒ではない、乞食をしなければ乞食じゃない。それを愈々言い訳するのではない。言うならばそれを黙って受けられる、大きなお腹を作っておいでられた事であろうと私は思うのです。一時が万事がそうであった。そういう生き方をなさったのです。私は今お話しながら思い出したんですけれどもね、是も二十五年も前に厚厚とよく似た事が私しあった。北野の教会にお話に何時も参っておりました。
所がその日はちょっと時間を遅らかして、とうとう福岡から出て来るのが夜になりました。それで丁度北野のあの大城橋ですか大城の駅から北野の所迄、ほんな私しがあそこへ出たのと電車が出たのがもう一緒にその乗り遅れた訳です。そしたら神様これから歩いていけともう真っ暗深の闇夜でした。だからレール伝いにずっとこう歩いて行く訳なんですけれどもね、それはまあいいですけれども神様こっから走れと仰る。
それからまぁ一生懸命走ってからですね、まあおかげで、北野の教会に着いてその話をさせて頂いたら、まああきれたち皆さんがいいますもん。あそこにはもう長い長いね、そのー川があってですね、そこは落ち込んだらその私は明くる朝そこを通って見て、びっくりしました。まあ昨日ここを私は駆けて走ったがと思うて。もう二度言われたって出来る事じゃないと思います。神様のお言葉と云う物は、走らせる事の為ではない。そう云う事を解らせて下さる事の為に、だったなあと思うのです。
竹藪を例えば切って前の晩に切っておかれる所を登ったり駆け下りたりされて、それこそ怪我一つされない、それこそ神様の仰せに恐れ入るというその恐れ入る心を作らせて下さるのです。私共の場合もそう云う事が、まあ色々な時に御座いました。結局私共がです、恐れ入った生活をさして貰うと云う事なんです。信心とは。そこで成る程だからおかげも受けなければならない。矢張り心の上も助からなければならない。しかもその心の助かりがですね、一時一時のものではない。
それが矢張りね、育てられて行くと言うおかげを頂かなければならない。そこでその育てて行くと言う事を最近合楽では心行と言われるので御座います。先月、先月から此処の合楽の久保山さんのお宅で共励会があっております。もう此処には夕べ合楽会でしたけれども、唯普通のお参りの方達ばっかりでしたけれども、久保山さん所になると、色々感心を持っておられる方がやっぱり幾らも有る訳です。
あんた方ならいっちょお話を聞く。あんた方先生が見夜なら一つ話を聞かせて下さいと云う様な形が見えて、もうそれももう夜中の一時までも二時までも覚えん様になって、お話をまあする、聞かせて貰うと云う事で御座います。もう感激一杯で田中さん、そこの帰られました。帰られた所が朝方お夢を頂かれた。西岡先生がその晩当番で参りました。そしたら西岡先生と田中さんがお風呂に入っておるお夢を頂いた。それをこちらからの映画女優ですかね、あれは朝岡雪時という女優がおります。
朝岡雪時という人がこうやって眺めておるお夢であったというのです。ね。お互いが信心の共励をする本当に有り難い。本当にもう有り難いお話を聞いた、心が一杯有難いそれこそ、燃えに燃えて来る訳です。ね。けれどもねそれもだからいけないのじゃないけれども、そういう一時でもそういう心になれると言う事は有難いのだけれども、それは何処迄も朝岡雪時だというのです。
西岡先生とお風呂に入っておると云う事は、それこそその一時はもう何もかにもを忘れての極楽でしょう。お風呂の中に入ってはあ極楽というその極楽でしょうけれども、そういう極楽ではです、何時までは続かない。浅はかなものだ、それこそ雪の様に溶けて行く物だというお知らせ。神様の知恵て素晴らしいですね適切に。だから私共がね時折感じる有り難い。それもとても有り難いんです。ね。けれどもその有難いと言うのが溶けないで浅いのではない。段々深うなって行く。ね。
そしてねその深うなって行くその心がね、神様へ向かう時に、神様がまたこちらに向いて向うて下さり、ねそして拝み合えるという境地に成って来るのです。今日二度目のお参りを久留米からなさった今村さんという方が毎日熱心に参って来ます。所がその、最近娘さんがもう、色々とお知らせを頂く様になった。ちょっと目をつぶるともうお知らせを頂く。御理解なんか頂きよるとそのご理解の内容をその御心眼に下さる。しかもカラーで下さる。自分も不思議で不思議でたまらん。
所が例えばその色々頂く事の中に兎に角、うら若い娘さんではですとても幾ら親先生でもお話が出来ない様な事を頂く。今日も色々御届け終わってから帰られてからお母さん実はまいっちょ。先生に御届けせんならん事あったち言いなさるげなもん。どげなこっちゃったの、それはお母さんこうこうじゃったと。ならお母さんが又二度目の午後のお参りをして、そん時御届けをさせて貰おうというのでまあお届けになったんです。
というのはね神様も神様うら若いその娘さんに御心眼にその男のシンボルを見せて下さったそうです。ちゃ自分の心の中に汚い物があるから、神様がこう云う物を見せて下さるのだろうかとも思うたけれども、御心眼は御心眼ですから御届けをされた。大事な事だ是は私が二十数年前で五歳ましたけれども、私もそんなお知らせを頂いた事がある。私はやっぱ男ですから所謂陰部を頂いた。
それこそ心がどきどきする様な、それこそカラーで頂くのですから(笑)。それから神様私その事をお届けさせて頂ましたらね、(じゅっぽうしょぶつしっしょうもん)と云う事を頂きました。だからその時分が随分それが流行りましてね、それは書いてからこう部屋に貼っちゃる。高嶋さんなんかはそれを第一番口にそれを確か貼られた口でしょうね。そん絵を書いちゃるとじゃないですよ。そりゃ字じゃ(笑)字のほうじゃん。(笑)それけん誰ーれでん解らん。
是は何ち云う事ですかち、言うたっちゃ自分だけ人に言われん。そりゃ(じゅっぽうしょぶししゅっしもん)たいち、あける。ね。けれども、それは大事な事なんだ。大事な物なんだ(じゅっぽうしょぶつしゅっしもん)。どういう言わば仏様であろうがです、どういう聖人であろうが、矢張りここを一遍通って来たのだというのです。(じゅっぽうしょぶつしゅっしもん)なのだ。私の頂いた、その二十数年前に頂いたそれと、今日今村さんが頂かれたのを一つにする時にです。
言わば本当の意味においての合楽のおかげと云う事になるのです。合楽のおかげにならなければ生みなすという働き、力になって来ないのです。私はだから今日はそのここの天地巌の訳を話しました。この天地巌は男のそれを表現した物。客殿の向こうのお手洗いの船方の大きなお手洗いは陰陽を現した物。だから此処ではそれを陰陽石とも私は思うておる。天地が大事である様に、陰陽同んなじなのだ。男と女同んなじなのだ。その男が男であったんで、女子が女子であったんでは本当な物がない。
男と女子が一つになる時に良い物が生まれて来るというおかげであります。金光様のおかげはそれなんだ。そこで私共が信心の喜びを頂いて、その喜びを段々育てて行く時にね、それが消えたり無くなったり、それこそ朝岡雪時ではないですけれども、それが消えて無くなる物ではなくて段々、育って行くと言う時に神様の方がそれこそ一礼申される事になり、又こちらの方からも神様と氏子とがお礼を言い合える中が生まれて来る。そこに私共と神様との出会いともなって本当の意味においての。
良い物が生まれて来る。それはおかげだけではない。御神徳であります。ね。私共その御神徳の世界に住まわせて頂くと言う事が私共の願いであると同時に又、天地金の神様の願いでもあるのです。ね。そこの所のおかげを私共が頂いて行く為に、ね、私共の心の中に何処から湧いて来るか解らんその信心の喜びをです、必ずその喜びが必ず頂けれるです。もう初めての方が四五回参って来るなら必ずその喜びは。
の中に開けて来るです。けれどもちょこっとばっかり延びるともうそれを踏みにじる様な事をして。神も仏も無いと言った様な事になったり、それが何時もしだこだになってどうどう回りと云う様な信心に終わってしまう様な方が多いのです。信心とは愈々その信心の喜びを育てて行くのである。自分の心の中にもどうしてこう云う様な神心があっただろうかと、今日日田の綾部さんのお導きの方の例をとって話しました様にね。
昨日まではです本当にお父さんがお母さんが、又は子供も子供たい、ついこの頃買うたばかりのものを買うというそれをまた、覚えんごとなって買うてやろうとする、お婆さんやらお父さんの心が知れないと、いうておった自分がそれ所か、それを買うて与える時に後ろ姿が拝みたい程しの心の状態を今日は有難いと云うてお礼に出て来られた様に、その心を愈々育てて行く事をそれは心行以外にないと思います。
どうぞ。